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宮本武蔵ゆかりの地を訪ねて

宮本武蔵ゆかりの地を訪ねて

コース

東寺(観智院) 銀閣寺 一乗寺下り松 中谷菓舗 詩仙堂 八大神社 曼殊院 穂野出(雲母漬老舗) 大徳寺 大仙院 西芳寺(苔寺) 二条城 西本願寺 清水寺 東寺 醍醐寺 平等院 宇治上神社 比叡山 延暦寺

東寺(観智院)

宮本武蔵筆の「鷲の図」「竹林の図」

東寺(観智院)

観智院は真言宗総本山東寺(教王護国寺)の子院(塔頭寺院)のひとつで、21建立された中でも最も位が高い子院です。寺院としての完成は1360年ですが、現在の建物は、1596年の大地震で被害を受けその後再建されたものです。

客殿(国宝)で、上座の間の床の間と襖には、宮本武蔵筆の「鷲の図」と「竹林の図」が描かれています。「鷲の図」は宮本武蔵が一乗寺下り松の決闘で吉岡一門を打ち倒した後、観智院に身を隠した頃に描いたもの、また、「竹林の図」の交差する竹は刀で打ち合う様、節は張りつめた緊張感を表現、武蔵の二刀流を想起させます。

※公開時期により観光コース中で妙心寺「退蔵院」と入れ替える場合もございます。ご了承ください。

銀閣寺

銀閣寺

「銀閣寺」という呼び名が有名ですが、正式には「慈照寺」と言います。銀閣寺という名前のいわれは、柿葺きの屋根を持つ観音殿の漆の跡が白く見受けられたことからと言われています。

室町八代将軍・足利義政が、祖父・義満の建てた金閣寺(北山殿)にならい、東山殿として建立、後に彼の遺言により禅寺になりました。

銀閣と、義政の書斎と仏間がある東求堂はともに国宝で、華やかな北山文化とは異なる東山文化のわびさびを随所に感じとることができます。

特別名勝・特別史跡に指定されている庭園は、錦鏡池を中央に、枯山水庭園と池泉回遊式庭園の上下段に分かれて造られています。

砂を盛り上げた向月台と銀沙灘は、まるで現代アートのような新鮮な造形を見せています。

一乗寺下り松

吉川英治「宮本武蔵」の吉岡一門との決闘の地

この界隈は古くから洛中から滋賀への交通の要所として栄えており、八大神社「一ノ鳥居」脇にあるクロマツは「下り松」と呼ばれて、街道の目印となっていました。

慶長九年(1604)の宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場として、吉川英治「宮本武蔵」に描かれることにより知られているこの下り松は、現在、決闘当時の下り松から数えて四代目です。

中谷菓舗

下り松近くの菓子処「中谷菓舗」には、宮本武蔵の一乗寺下り松の決闘にちなんだ焼き菓子「武蔵饅頭」があります。剣の鍔をかたどったものです。店内には座敷席があり、お茶とお菓子で休憩することもできます。また、「でっち羊羹」は、江戸時代に一乗寺村でお祭り時に始まった昔そのままの味と姿を代々伝えるものです。

詩仙堂

風流のきわみを知る文人ゆかりの寺

詩仙堂
詩仙堂

江戸時代の文人・石川丈山が隠樓の地として晩年の30余年を過ごした山荘です。詩仙堂と呼ばれる建物は正式には凹凸といい、でこぼこの土地に建てた住居の意です。
通り名「詩仙の間」は、中国の詩人36人を狩野探幽に描かせてその詩文を丈山自ら書いて四方の壁に掲げたもので、必見の一室です。
回遊式庭園には丈山が考案したと伝えられる「鹿おどし」があり、竹筒の音が澄んだ空気に心地よく響きます。

丈山は、徳川家家臣の家柄に生まれ、16歳で家康に仕えました。大阪夏の陣ではめざましい戦功を挙げましたが、それを最後に徳川家を離れて、その後は学問と芸術の道を邁進しました。

八大神社

風流のきわみを知る文人ゆかりの寺

鎌倉時代永仁2年(1294年)創建の、昔ながらの「地に根付いた」古い神社です。一乗寺の氏神・鎮護の神として700年以上の歴史を持ち、古くからある「宮座」制を残す数少ない神社として現在も多くの特殊神事などを行っています。保存される「剣鉾差し」は京都市登録無形文化財になっています。

吉川英治「随筆宮本武蔵」では、宮本武蔵が一乗寺下り松の決闘の際にふとこの八大神社に参拝しようとしたところ「我れ神仏を尊んで神仏を恃(たの)まず」という開悟を得たのではないか、とされています。境内には決闘当時の一乗寺下り松の「古木」が祀られ、宮本武蔵の像も建立されています。神社には、宮本武蔵にちなんだおみくじや絵馬、お守りなどもあります。

曼殊院

江戸初期の様式美を伝える洛北の名寺

曼殊院は、伝教大師最澄が開いた天台宗の寺です。曼殊院門跡あるいは竹の内門跡とも呼ばれて洛北屈指の由緒ある寺として知られています。

寺宝としている国宝の「古今和歌集」や、狩野探幽筆の襖絵および障壁画など名品が目白押しです。

初夏のキリシマツツジや秋の紅葉も有名です。桂離宮を造営した智仁親王の次男・良尚法親王が現在地へ移され、その造営に苦心されました。

穂野出(雲母漬老舗)

創業元禄2年の由緒ある漬物店。建物は関所跡で京都市の文化財にも指定されています。「雲母漬」とは、契約農家で栽培された小茄子を自家製の白味噌に漬けたもので、店内で試食もできます。また、ここ一乗寺のみで特産として販売しています。

古き「村」「里」の風情を残す空間で、街道としての一乗寺の賑わいや厳しい難所「雲母坂」より比叡山を目指した名僧の歴史などに思いを馳せることでしょう。

大徳寺 大仙院

洛北随一と言われる大徳寺には23の塔頭寺院があります。そのうち4つが常時公開されており、その1つがこの大仙院です。

枯山水庭園は室町時代を代表する庭園で、禅的なものに水墨画の影響で独特な景観を見せています。また国宝の方丈も室町期のもので現在最古です。狩野派の襖絵はルーブル美術館にも出品されました。

宮本武蔵を導いたとされる沢庵和尚は歴代住職の内7代目です。沢庵和尚は「禅と剣の奥義は相通じるもの」としており、宮本武蔵の心の師匠であったという話は世に広く知られています。

北の書院は室町時代の代表的書院建築として有名ですが、それ以上に、沢庵が武蔵に剣の極意を授けたという逸話によっても名高いものです。

西芳寺(苔寺)

西芳寺(苔寺)

暦応2年(1339)夢窓国師が再興したと伝えられています。庭一面が120余種の美しい苔でおおわれているところから、一般に「苔寺」と呼ばれています。庭園は日本でも特に古いものとされ、心の字をかたどる黄金池をかこむ池泉回遊式庭園です。

※拝観は事前に申込みが必要です。

二条城

二条城

徳川家康が京都における居館として造営した城です。唐門や二の丸御殿などに桃山文化の枠が結集され豪壮華麗な世界が広がります。旧桂宮御殿を移築した現本丸御殿は、瀟酒な宮御殿の遺構であり、重要文化財に指定されています。

西本願寺

徳川家康が京都における居館として造営した城です。唐門や二の丸御殿などに桃山文化の枠が結集され豪壮華麗な世界が広がります。旧桂宮御殿を移築した現本丸御殿は、瀟酒な宮御殿の遺構であり、重要文化財に指定されています。

清水寺

清水の舞台から望む絶景

清水寺

京都観光の中心ともなる「京洛屈指」の名刹。また、西国三十三カ所めぐり第16番札所として、善男善女が訪れます。

秘仏十一面千手観音立像を本尊とし、33年ごとにご開帳されます。国宝の本堂を初め、仁王門や三重塔などの重文建造物と、成就院庭園(名勝)が世界文化遺産に登録されています。

東寺

真言仏教の仏像や、弘法大師で知られる

東寺

平安京が造営された時、羅城門を挟んで東西に建立された守護寺です。その後、弘法大師の真言密教の名刹として仏教芸術、五重塔などが知られるようになりました。

国宝だけでも30を超える数があるほど、みどころの多い寺です。その中で主な建物は、仏像が並んでいる金堂、五重塔、大師堂、が国宝に指定されています。五重塔は天長3年(826)、弘法大師の創建時に始まりますが、たびたび火災に遭い焼失すること4回に及び、寛永21年(1644)に徳川家光によって再建されました。各階が3間四方で高さ57mと日本最高の五重塔です。

また、国宝の仏像で宝物館にある兜跋毘沙門天も見逃せません。元は羅城門にあったと伝えられ、京の都の守護神でした。

醍醐寺

秀吉が花の宴を開いた、山科の名刹

醍醐山の全山が寺の境内になっていて、山上の上醍醐、山腹の下醍醐に分かれています。80を超える堂宇の多さと、寺域の広大さでは、京都でも屈指の大寺院です。

創建は、貞観年間(859~877)。理源大師が世俗を離れて真の仏教を悟ろうと上醍醐に小堂宇を建立したことに始まります。理源大師が建てた「准胝堂」は西国三十三カ所めぐり第11番札所になっています。

下醍醐は醍醐天皇の勅願寺として開けた寺であり、ここも名所旧跡の宝庫です。特に五重塔は、天暦5年(951)に完成した京都でも最古の建造物です。五重塔以外の建物は応仁の乱により焼失し、豊臣、徳川両家によって、今日の伽藍に整えられました。

総門から仁王門まで桜馬場が続き、左右の築地塀の中に、三宝院や霊宝院があります。仁王門を入ると、豊臣秀吉が紀州より移した金堂や御影堂などが並びます。金堂は平安末期の遺構。堂内には鎌倉時代の薬師三尊(国宝)が安置されています。

また、醍醐寺は花見の名所として知られ、上醍醐・下醍醐合わせて8万坪の境内には、約2000本の桜が植えられています。秀吉が豪華な花見の宴をくりひろげたことにちなんで、毎年4月第2日曜日に、太閤花見行列が行われます。

平等院

“極楽浄土を”との願いを込めて

平等院

「この世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と藤原氏の栄華を詠み讃えた、藤原道長の別荘がもとになったものです。宇治に極楽浄土を再現しようとした息子頼通が寺院とし、藤原氏の栄華を伝えるものとして今も多くの人々に親しまれています。

10円玉でもお馴染みの「鳳凰堂」は、美しい左右対称の建築物として高い評価を得ています。この堂の本尊の阿弥陀如来坐像を安置する阿弥陀堂なのですが、屋根の両端に鳳凰が配してあることからこの名が付けられたそうです。

父道長から別荘を譲られた頼通は、永承7年(1052)にここを寺に改め、大日如来を安置して「平等院」としました。翌年には平安貴族たちのあこがれの極楽浄土を表した鳳凰堂が建てられました。

建武3年(1336)の足利尊氏と楠木正成の戦いによって鳳凰堂と観音堂、鐘楼を残して全て焼失し、現在に至っています。平等院が創立されたころに作られた高さ199cmの釣鐘は、銘の神護寺、音の三井寺と並んで形の平等院として日本三名鐘に数えられています。

宇治上神社

本殿は、藤原時代の一間社流造りで国宝に指定されています。拝殿は宇治離宮の遺構と伝えられ、板唐戸に蔀戸を入れた寝殿造りの風です。

境内には宇治七名水の一つ「桐原水」が、今も美しく湧き出ています。宇治神社の東、大吉山の麓の木立に包まれています。

比叡山 延暦寺

日本の仏教のふるさと

比叡山 延暦寺

天台宗の本山。比叡山四明方岳の北東。平安京の鬼門(艮)にある。空海の開いた教王護国寺(東寺)とともに、王城鎮護の寺として勢力を延ばし、平安末期には3000坊を数える大寺に。白河法皇が、「わが意のままにならぬもの」として、延暦寺の山法師をあげたほど、鎌倉時代には、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元らを輩出。やがて彼らは新しい宗派の宗祖となり、今日の仏教を体系づける。南北朝、戦国の政権争奪戦に加担していった寺の勢力は、やがて天下統一をめざす織田信長によって封じ込まれた。元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちでは、西塔の瑠璃堂を残してすべて焼失。現在の延暦寺は、比叡山山上と、山下の坂本に分けられる。山上は3塔16谷2別所。延暦寺一山の本堂は、東塔の根本中堂である。開基・伝教大師最澄が延暦7年(788)に一乗止観院を建てたところに建つ。回廊をめぐらせた豪壮な伽藍で、内陣の宝前には開創以来の“不滅の法灯”が、1200年の時を越えて輝き続けています。