京都観光モデルコース 【10】 Sightseeing taxi
世界文化遺産17社めぐり
1994年、京都の17社が「世界文化遺産」に選ばれました。
選ばれた社寺はこちらの通りです。コースに応じて時間設定いたします。
コース
上賀茂神社 下鴨神社 銀閣寺 金閣寺 龍安寺 御室仁和寺 高山寺 天龍寺 西芳寺(苔寺) 二条城 西本願寺 清水寺 東寺 醍醐寺 平等院 宇治上神社 比叡山 延暦寺
所要時間 コースに応じる
上賀茂神社
京都で最も古い神社の一つです。下鴨神社とは対照的に二筋の小川の流れと朱の社殿とのコントラストが鮮やかです。
この古い神社は、農耕に欠かせない「水」を司る神として崇められていて、広大な社域の中に40を越える小祠が配置されています。毎年5月、葵祭行列が到着し勅祭が行われます。
下鴨神社
賀茂川と高野川が合流する「糺の森」に、京都で最も古い合流神社の一つ下鴨神社があります。
五穀豊穣の神として、また平安遷都後の王城鎮守の神として崇められ、伊勢神宮に準じた格式を持っています。5月の葵祭は当社の祭です。
銀閣寺
「銀閣寺」という呼び名が有名ですが、正式には「慈照寺」と言います。銀閣寺という名前のいわれは、柿葺きの屋根を持つ観音殿の漆の跡が白く見受けられたことからと言われています。
室町八代将軍・足利義政が、祖父・義満の建てた金閣寺(北山殿)にならい、東山殿として建立、後に彼の遺言により禅寺になりました。
銀閣と、義政の書斎と仏間がある東求堂はともに国宝で、華やかな北山文化とは異なる東山文化のわびさびを随所に感じとることができます。
特別名勝・特別史跡に指定されている庭園は、錦鏡池を中央に、枯山水庭園と池泉回遊式庭園の上下段に分かれて造られています。
砂を盛り上げた向月台と銀沙灘は、まるで現代アートのような新鮮な造形を見せています。
金閣寺
北山文化の美を代表する“洛西の雄”
衣笠山を借景に、さん然と輝く金の楼閣。金閣は足利文化の頂点である北山文化の粋である。応永元年(1394)に将軍職を善持に譲った足利3代将軍義満が、西園寺公経の山荘の跡に“北山殿”と呼ぶ別邸を造って隠棲した。ここに有名な北山文化が花と開いたのである。応永15年義満が没し、善持により禅刹に改められた北山殿は善満の法号にちなんで鹿苑寺と号するようになった。金閣寺の別名で知られる通り、寺の象徴は、金閣、鏡湖池に望む3層の楼閣で、初層は寝殿造の“法水院”、2層目は武家造りの“潮音洞”、第3層は唐風の“究竟頂”。
龍安寺
静寂に包まれて、石が描く小宇宙を堪能
石庭であまりにも有名な寺。室町時代の武将・細川勝元が宝徳2年(1450)に衣笠山麓にあった藤原氏の山荘を得て、妙心寺の義天玄承を開山として創建した創建当時のまま伝えるという大きな鏡容池を南にして、慶長11年(1606)建立の方丈をはじめ仏殿、庫裏、鐘楼などが建つ。竜安寺の石庭は、方丈の南にある。白砂を敷きつめた長方形の平庭を、柿葺き油土塀が3方を囲んでいる。白砂の上には15個の石。東から西へ、7・5・3の石組みを配し、わずかに石組のまわりを苔の緑が縁どる。簡潔な構成の枯山水は、海の景色を写し出そうとしたとも、親虎が虎の子を連れて大河を渡っている様子を表現しているとも解釈されている。俗名を、虎の子渡しの庭という。
御室仁和寺
お多福桜の咲く、由緒ある御室御所
宇多天皇が落飾の後に入寺して以来、約千年の間、法親王が住持についてきた。宇多天皇が御座所である御室を設けたことから“御室御所”ともいう。街道に沿って建つ朱塗りの仁王門の威容が、寺の格式を伝える。国宝の金堂は桃山時代の紫宸殿を移したもので、王朝の気品に満ちている。古唄に詠まれる御室の桜は中門の左手一帯に咲き匂う。高さ2m足らずの里桜で、お多福桜とも言う。花の盛りは遅くて4月下旬。
高山寺
宇多天皇が落飾の後に入寺して以来、約千年の間、法親王が住持についてきました。宇多天皇が御座所である御室を設けたことから“御室御所”とも呼ばれています。
街道に沿って建つ朱塗りの仁王門の威容が、寺の格式を伝えています。国宝の金堂は桃山時代の紫宸殿を移したもので、王朝の気品に満ちています。
古唄に詠まれる「御室の桜」は中門の左手一帯に咲き匂います。高さ2m足らずの里桜で、「お多福桜」とも呼ばれています。花の盛りは遅く、4月下旬です。
天龍寺
京都屈指の名寺の一つ
足利尊氏が後醍醐天皇の霊を慰めるため夢窓国師を講じて延元4年(1339)に建立した、臨済宗天龍寺派の大本山です。
室町時代には京都五山の第一位を占め、塔頭150以上の規模を誇りましたが、度々の兵火に興亡を繰り返しました。
夢窓国師の当時をしのばせるのは、国師の作庭と伝わる大方丈の背後にある庭園で、嵐山と亀山の背景を巧みにとり入れた、曹源池を中心とする池泉回遊式です。法堂の天井には、加山又造筆の雲龍図が描かれています。
西芳寺(苔寺)
暦応2年(1339)夢窓国師が再興したと伝えられています。庭一面が120余種の美しい苔でおおわれているところから、一般に「苔寺」と呼ばれています。庭園は日本でも特に古いものとされ、心の字をかたどる黄金池をかこむ池泉回遊式庭園です。
※拝観は事前に申込みが必要です。
二条城
徳川家康が京都における居館として造営した城です。唐門や二の丸御殿などに桃山文化の枠が結集され豪壮華麗な世界が広がります。旧桂宮御殿を移築した現本丸御殿は、瀟酒な宮御殿の遺構であり、重要文化財に指定されています。
西本願寺
徳川家康が京都における居館として造営した城です。唐門や二の丸御殿などに桃山文化の枠が結集され豪壮華麗な世界が広がります。旧桂宮御殿を移築した現本丸御殿は、瀟酒な宮御殿の遺構であり、重要文化財に指定されています。
清水寺
清水の舞台から望む絶景
京都観光の中心ともなる「京洛屈指」の名刹。また、西国三十三カ所めぐり第16番札所として、善男善女が訪れます。
秘仏十一面千手観音立像を本尊とし、33年ごとにご開帳されます。国宝の本堂を初め、仁王門や三重塔などの重文建造物と、成就院庭園(名勝)が世界文化遺産に登録されています。
東寺
真言仏教の仏像や、弘法大師で知られる
平安京が造営された時、羅城門を挟んで東西に建立された守護寺です。その後、弘法大師の真言密教の名刹として仏教芸術、五重塔などが知られるようになりました。
国宝だけでも30を超える数があるほど、みどころの多い寺です。その中で主な建物は、仏像が並んでいる金堂、五重塔、大師堂、が国宝に指定されています。五重塔は天長3年(826)、弘法大師の創建時に始まりますが、たびたび火災に遭い焼失すること4回に及び、寛永21年(1644)に徳川家光によって再建されました。各階が3間四方で高さ57mと日本最高の五重塔です。
また、国宝の仏像で宝物館にある兜跋毘沙門天も見逃せません。元は羅城門にあったと伝えられ、京の都の守護神でした。
醍醐寺
秀吉が花の宴を開いた、山科の名刹
醍醐山の全山が寺の境内になっていて、山上の上醍醐、山腹の下醍醐に分かれています。80を超える堂宇の多さと、寺域の広大さでは、京都でも屈指の大寺院です。
創建は、貞観年間(859~877)。理源大師が世俗を離れて真の仏教を悟ろうと上醍醐に小堂宇を建立したことに始まります。理源大師が建てた「准胝堂」は西国三十三カ所めぐり第11番札所になっています。
下醍醐は醍醐天皇の勅願寺として開けた寺であり、ここも名所旧跡の宝庫です。特に五重塔は、天暦5年(951)に完成した京都でも最古の建造物です。五重塔以外の建物は応仁の乱により焼失し、豊臣、徳川両家によって、今日の伽藍に整えられました。
総門から仁王門まで桜馬場が続き、左右の築地塀の中に、三宝院や霊宝院があります。仁王門を入ると、豊臣秀吉が紀州より移した金堂や御影堂などが並びます。金堂は平安末期の遺構。堂内には鎌倉時代の薬師三尊(国宝)が安置されています。
また、醍醐寺は花見の名所として知られ、上醍醐・下醍醐合わせて8万坪の境内には、約2000本の桜が植えられています。秀吉が豪華な花見の宴をくりひろげたことにちなんで、毎年4月第2日曜日に、太閤花見行列が行われます。
平等院
“極楽浄土を”との願いを込めて
「この世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と藤原氏の栄華を詠み讃えた、藤原道長の別荘がもとになったものです。宇治に極楽浄土を再現しようとした息子頼通が寺院とし、藤原氏の栄華を伝えるものとして今も多くの人々に親しまれています。
10円玉でもお馴染みの「鳳凰堂」は、美しい左右対称の建築物として高い評価を得ています。この堂の本尊の阿弥陀如来坐像を安置する阿弥陀堂なのですが、屋根の両端に鳳凰が配してあることからこの名が付けられたそうです。
父道長から別荘を譲られた頼通は、永承7年(1052)にここを寺に改め、大日如来を安置して「平等院」としました。翌年には平安貴族たちのあこがれの極楽浄土を表した鳳凰堂が建てられました。
建武3年(1336)の足利尊氏と楠木正成の戦いによって鳳凰堂と観音堂、鐘楼を残して全て焼失し、現在に至っています。平等院が創立されたころに作られた高さ199cmの釣鐘は、銘の神護寺、音の三井寺と並んで形の平等院として日本三名鐘に数えられています。
宇治上神社
本殿は、藤原時代の一間社流造りで国宝に指定されています。拝殿は宇治離宮の遺構と伝えられ、板唐戸に蔀戸を入れた寝殿造りの風です。
境内には宇治七名水の一つ「桐原水」が、今も美しく湧き出ています。宇治神社の東、大吉山の麓の木立に包まれています。
比叡山 延暦寺
日本の仏教のふるさと
天台宗の本山。比叡山四明方岳の北東。平安京の鬼門(艮)にある。空海の開いた教王護国寺(東寺)とともに、王城鎮護の寺として勢力を延ばし、平安末期には3000坊を数える大寺に。白河法皇が、「わが意のままにならぬもの」として、延暦寺の山法師をあげたほど、鎌倉時代には、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元らを輩出。やがて彼らは新しい宗派の宗祖となり、今日の仏教を体系づける。南北朝、戦国の政権争奪戦に加担していった寺の勢力は、やがて天下統一をめざす織田信長によって封じ込まれた。元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちでは、西塔の瑠璃堂を残してすべて焼失。現在の延暦寺は、比叡山山上と、山下の坂本に分けられる。山上は3塔16谷2別所。延暦寺一山の本堂は、東塔の根本中堂である。開基・伝教大師最澄が延暦7年(788)に一乗止観院を建てたところに建つ。回廊をめぐらせた豪壮な伽藍で、内陣の宝前には開創以来の“不滅の法灯”が、1200年の時を越えて輝き続けています。