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悲劇のヒーロー義経伝説を訪ねる旅

悲劇のヒーロー義経伝説を訪ねる旅
悲劇のヒーロー義経伝説を訪ねる旅

悲劇のヒーロー義経伝説、京都で確かめてみませんか?

鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟、義経。1159年に京都で生まれ、幼名を牛若と名付けられました。父親(義朝)が平家(平清盛)に対して乱を起こしたため、その子どもたちも命を奪われそうになりましたが、母親である常磐御前が平清盛に仕えることにより、義経は六歳で鞍馬山に預けられて命を長らえました。

10年間を鞍馬で過ごしている間に、義経は父親の命を奪ったのが平家であり自分が源氏の嫡流であることを知ります。ひそかに平家討伐を誓いながら、夜ごとに鞍馬の山奥深くで天狗とともに武者修行を行っていたという伝説があります。義経はその後、奥州へと渡り、兄とともに平家滅亡を導くものの、その兄から疎まれ、1189年に短い生涯を閉じました。

義経・牛若丸が生まれ育ったとされる京都には、ゆかりの場所が数多く残っています。「鞍馬天狗との武者修行」の他に「五条大橋での武蔵坊弁慶との闘い」など有名なエピソードもあります。

「牛若丸」と呼ばれた義経の幼少時代は多くの謎に包まれています。悲劇のヒーロー義経伝説、京都で確かめてみませんか?


※鞍馬山は、森が深く茂る一帯です。天気によっては薄暗い日もございます。山道をお歩きの場合は、明るい時間帯に、くれぐれもお足元にご注意ください。

悲劇のヒーロー義経伝説を訪ねる旅

コース

鞍馬寺仁王門・鬼一法眼社 鞍馬寺 本殿金堂 源義経供養塔 由岐神社 牛若丸息次ぎの水 義経公背比べ石 義経堂 木の根道 奥の院 魔王殿 多聞堂 左女牛井之跡 弁慶石 首途八幡宮 紫竹牛若町・光念寺・常徳寺 平等院 宇治上神社 比叡山 延暦寺

鞍馬寺仁王門・鬼一法眼社

俗界から浄域への結界をなす、と言われている仁王門。鞍馬寺の境内であり、湛慶作の仁王尊像が祀られています。そこを通過すると見えてくるのが、鬼一法眼社。牛若に兵法を授けたと言われる武芸の達人・鬼一法眼が祀られています。ひときわ目立つ朱塗りの社が目印です。

鞍馬寺 本殿金堂

鑑真上人の高弟・鑑禎上人が開基し、昭和22年に鞍馬弘教が立教されて総本山となりました。本尊・尊天は、毘沙門天・千手観音菩薩・護法魔王尊です。地下は宝殿で、清浄髪奉納祈願所になっています。背後の経塚からは、平安時代後期の遺物が多数出土し、一括して国宝に指定されました。

義経が幼少期に預けられていたことで有名なこの寺では、毎年9月15日に「義経祭」を開催します。義経の御霊を慰め、業績を称える祭事です。

源義経供養塔

義経が6歳から10年間を過ごしたと言われる、東光坊の跡地。昭和15年に義経を偲んで供養塔が建立されました。

由岐神社

鞍馬の火祭で有名な神社です。御所から鎮守社として勧請されたのが始まりと言われています。中央に通路をとった割拝殿という珍しい拝殿は、1610年に豊臣秀頼によって建築されたものです。現在は重要文化財に指定されています。

牛若丸息次ぎの水

義経が東光坊から奥の院へと毎夜、剣術修行に通う途中でのどの渇きを潤すために飲んだと言われている清水です。

義経公背比べ石

16歳で義経が藤原氏を頼って奥州に下る際に、鞍馬山との名残を惜しんで背丈を比べたと伝えられる石です。この柵の中の石と義経の背丈が同じ高さだったと言われています。

義経堂

源義経公を護法魔王尊の脇侍・遮那王尊として祀っています。

木の根道

このあたりの地質は主に砂岩なのですが、岩脉が貫入してその熱によって砂岩が硬化して風化しにくくなっています。そのため、ここに芽生えた杉の根は、地下へ伸びることができず、地表に近い岩盤の上に根を張ってこの珍しい景観「木の根道」をつくっています。これは鞍馬山の名所の一つとなっています。毎夜、鞍馬天狗を相手に義経が武芸を修行していた場所と言われています。

※この場所を歩かれる場合は根につまずいて転倒されないよう、また靴で木の根を傷めないよう、ご注意ください。

奥の院 魔王殿

護法魔王尊が奉安されています。護法魔王とは、650万年前に金星より地球の霊王として天降り地上の創造と破壊を司るものとされています。柵内は、石灰岩が累々とかなり、日本庭園の源流ともいわれる磐座になっています。

多聞堂

護法魔王尊が奉安されています。護法魔王とは、650万年前に金星より地球の霊王として天降り地上の創造と破壊を司るものとされています。柵内は、石灰岩が累々とかなり、日本庭園の源流ともいわれる磐座になっています。

左女牛井之跡

左女牛井之跡

下京区:石碑「左女牛井之跡」

六条堀川にあります。かつて源氏館の庭にあった名水が「左女牛井」です。この館は平治の乱で焼失しましたが、義経が後に再建し居館にしたと言われています。

弁慶石

中京区:弁慶石

弁慶にまつわるさまざまな伝説が残る石です。「男児がさわると力持ちになれる」などと言い伝えられています。

首途八幡宮

上京区:首途八幡宮

義経を奥州へ導いた金売吉次の邸宅跡。義経が奥州出発の際に道中の安全無事と武勇上達を祈願したため、首途(かどで)という名前がついたと言われています。

紫竹牛若町・光念寺・常徳寺

紫竹牛若町・光念寺・常徳寺

北区:
紫竹牛若町
・・・牛若丸誕生井・胞衣塚・源義経産湯ノ井跡

光念寺・・・腹帯地蔵
    (義経の母・常磐御前の守り本尊)
常徳寺・・・常磐地蔵
    (義経の母・常磐御前が安産祈願をして彫った像)

源義朝の別邸があった紫竹には「牛若」という地名とともに、義経誕生にまつわる史跡が多く残っています。義経のへその緒と胞衣が埋められたとされているのが「胞衣塚」、産湯に使用された井戸跡とされているのが「産湯ノ井跡」です。また、誕生石碑は複数あり、義経の謎の多さを物語っています。

平等院

“極楽浄土を”との願いを込めて

平等院

「この世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と藤原氏の栄華を詠み讃えた、藤原道長の別荘がもとになったものです。宇治に極楽浄土を再現しようとした息子頼通が寺院とし、藤原氏の栄華を伝えるものとして今も多くの人々に親しまれています。

10円玉でもお馴染みの「鳳凰堂」は、美しい左右対称の建築物として高い評価を得ています。この堂の本尊の阿弥陀如来坐像を安置する阿弥陀堂なのですが、屋根の両端に鳳凰が配してあることからこの名が付けられたそうです。

父道長から別荘を譲られた頼通は、永承7年(1052)にここを寺に改め、大日如来を安置して「平等院」としました。翌年には平安貴族たちのあこがれの極楽浄土を表した鳳凰堂が建てられました。

建武3年(1336)の足利尊氏と楠木正成の戦いによって鳳凰堂と観音堂、鐘楼を残して全て焼失し、現在に至っています。平等院が創立されたころに作られた高さ199cmの釣鐘は、銘の神護寺、音の三井寺と並んで形の平等院として日本三名鐘に数えられています。

宇治上神社

本殿は、藤原時代の一間社流造りで国宝に指定されています。拝殿は宇治離宮の遺構と伝えられ、板唐戸に蔀戸を入れた寝殿造りの風です。

境内には宇治七名水の一つ「桐原水」が、今も美しく湧き出ています。宇治神社の東、大吉山の麓の木立に包まれています。

比叡山 延暦寺

日本の仏教のふるさと

比叡山 延暦寺

天台宗の本山。比叡山四明方岳の北東。平安京の鬼門(艮)にある。空海の開いた教王護国寺(東寺)とともに、王城鎮護の寺として勢力を延ばし、平安末期には3000坊を数える大寺に。白河法皇が、「わが意のままにならぬもの」として、延暦寺の山法師をあげたほど、鎌倉時代には、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元らを輩出。やがて彼らは新しい宗派の宗祖となり、今日の仏教を体系づける。南北朝、戦国の政権争奪戦に加担していった寺の勢力は、やがて天下統一をめざす織田信長によって封じ込まれた。元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちでは、西塔の瑠璃堂を残してすべて焼失。現在の延暦寺は、比叡山山上と、山下の坂本に分けられる。山上は3塔16谷2別所。延暦寺一山の本堂は、東塔の根本中堂である。開基・伝教大師最澄が延暦7年(788)に一乗止観院を建てたところに建つ。回廊をめぐらせた豪壮な伽藍で、内陣の宝前には開創以来の“不滅の法灯”が、1200年の時を越えて輝き続けています。